「たいへん申し訳ありません。一日乗車券は今、一人分しかございませんので、お連れ様のこのバスの料金は結構です。お連れ様の分は次に乗車されるバスの運転士からお買い求め下さい。」

最近は女性のバスの運転士さんがそれほど珍しくなくなっていますが、その女性は、ちょっと申し訳なさそうに、とはいえ、笑みを浮かべながら優しく爽やかに応えました。私とワイフは運転士さんの前で思わず顔を見合わせてしまいました。

その日は丁度、お彼岸の入りということで私とワイフ、そして85歳になるちょっと身体に"がた"がきた私の母親の三人でお墓参りに行こうということで、バスに乗って目的地に向かう第一歩目だったのです。私は今時珍しがられますが、いわゆる自動車の免許を持っておりません。その理由は今度の機会にでも譲るとして、免許がないためよく市営バスを利用します。そして一日乗車券をたびたび購入することがあります。大半はバスに乗るときに運転士さんから購入するのですが、ごくたまに、運転士さんの持ち合わせがなく、「一枚しかないんですよ。」と言われることも何度かありました。みすみす一人分しか買えず、ワイフの料金210円を支払って、次に乗るバスで一日乗車券を買っていたわけです。

そんな経験しかしていなかった我々夫婦は「そうか、そんな手があったんじゃないの〜」と思わず心の中で叫んでお互いに顔を見合わせていたわけです。車内に乗り込んだ後、我がワイフは「それにしてもこの女性の運転士さん気が利くわ〜。しかも、私たちのことを信用してこのバスを無料で乗せてくれた。」無料で乗れた喜びからなのか、非常に感激をしていた我がワイフでした。勿論、私も何だか心の中が「ふわふわ」しており、気分が良かったことは確かでした。

更に素晴らしいことは続きました。バスが次の停留所に近づくと「まもなく○○に停車いたします。車内が大変混み合い申し訳ございませんでした。」停車して降りる乗客には「大変お疲れ様でした。気をつけてお降り下さい。」新しく乗客が乗り込む際には、「車内が込み合っておりますので、もう少し中にお入り下さい。ご協力を宜しくお願い致します。」えてして、乗客を乗せることよりも、バスのダイヤに乱れが起きないことを優先しているのではないかと誤解されてしまうかのような運転士さんがいるなか、安全に、なるべく多くの乗客が乗り降りできるように、例の"優しく爽やかな声"で車内の皆さんに告げておりました。バスが曲がるたびに、「右に曲がります。」「左に曲がります。」

同じように車内にマイクで注意を喚起する運転士さんは沢山いらっしゃいます。でも違うんだよなあ。声のトーンが違うんですよ。いやいや、声のトーンだけではない、「本当に気を付けて下さいねー。」「危ないから、慌てなくても結構ですよー。ゆっくり降りて下さいねー。時間なんて全然気にしてませんからねぇー。」そう、「こころ」「気持ち」が入っているんだよね。"やさしさ"が声全体を包み込んでいるような感じなんですよね。その声が混んだ車内に爽やかに響き渡ることで、心なしか乗客の皆さんのお顔も和やかに見えたと感じたのは、我々夫婦だけではなかったと思います。バスを降りるとき、運転席の上の名札を見ようとしましたが残念ながら分かりませんでした。

家に戻ってからワイフと女性運転士の話題になりました。

ワイフ曰く「いるのよねぇ、ああいう素晴らしい人が。何の疑いもなく我々を信用してくれて話をしてくれたこと。頭では分かるけど、なかなかできないわよね。信用してくれてると感じるからこそ、こちらも安心して話をすることができるのよねー。サービス業・接客業の基本だね。」「あの身体全体から発する優しさ、あんたには感じられないわね。」"痛ッ!"。「あれは生まれついてのものよね。そして家庭環境かなあ。」

私は思わず「いやいや、研修や教育の効果もあるんじゃないの?」と反論してみましたがあまり説得力はありませんでした。「そうかー、"やさしさ"かー。生まれつきなのかなー?サービス業の基本かぁー。ふ〜ん。」「まずは相手を信用することかー。」と軽く認識した一日でした。

翌日、母親の通院日ということで我が家の三人組がバスを利用して病院に向かいました。三人が乗車口から乗るとバスがスムーズに動き出しました。生憎、優先席が満席で、後ろの方に少し空席がありました。後ろの空席に向かおうとしていた母親に、バスが動いていたので私が「とりあえずこのポールにつかまっていな。」と指示をした直後でした。男性運転士さんの声が車内に響き渡りました。「困るんだよねぇ。走行中に動き回られると。」
-------うわぁー!こりゃダメだー。-------- 
私の頭の中はまた振り出しに戻ったのでした。

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川合 健三 第24期消費生活アドバイザー
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